榊原 茂典     東北各線
                   東北各地の蒸気機関車、DC達の姿をご覧ください
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Jul '64 東北本線 北上
横黒線に投じられていたD60が北上機関支区に佇む。こんなに静かな時の流れていた時代があったことが懐かしく思い出される。オリンピック以降の日本は全てが変わってしまった。



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Jul '64 東北本線 北上
横黒線の貨物列車が北上駅を発車し、左へ分岐して横手方面に向かう。待ち受ける25‰の勾配に備えD60の後補機が最後尾付く。今思えば嘘のように静かな夕暮れだった。燃えるような夕日が忘れられない。


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Jul '64 東北本線 北上
夕日を浴びて発車を待つ仙台発横黒線経由青森行急行「あけぼの」。写っている人々の風情が如何にも時代を表している。



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     Jul '64 東北本線 北上
北上で貨車の入れ換え作業を行っている日本最大の蒸気機関車D62。当時はこの区間でしか見ることは出来なかった。


   
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Aug '66 磐越西線 中山宿
鉄ファン誌に載った瀬古龍雄氏の記事にヒントを得て、夏合宿からの帰り時間を上手く3時間浮かせて、電化開業を目前に控えた夏の中山宿を訪れた。
この駅は典型的なスィッチバック構造で、急行列車密度も比較的高く、頻繁にタブレットの授受が行われるので、見ていて飽きることがなかった。
将にタブレットを受器に投げいれて通過しようとしている列車は913D仙台行急行「あがの1号」。上り列車なのに列車番号が奇数なのが面白い。涼風を取り入れるために乗客は窓を満開にしたいのだが、陽光が差し込むらしくブラインドを下げざるを得ない。そこで窓を閉じたり、半開にしたりして苦しい選択をしているのがよく分かる。


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Aug '66 磐越西線 中山宿
当時の磐越西線では優等列車をDF50が牽引することが多かった。写真は2404レ急行「第1ばんだい」が通過するところ。この写真は宇宙カメラとして人気のあったMinolta Highmatic7というレンジファインダー式のEE機で撮ったもの。シャッターボタンのストロークが深く、こういうシャッターチャンスを捉えることが極めて難しかった。そんなカメラで何故この写真が撮れたかという種明かしをすると、この日は下り列車がかなり遅れていて、この駅を通過する予定の2404レが定時で接近してきた時、行き違いの下り列車2401レはその姿すら無かった。やむなく、この2404レは信号てこ扱い所の向こうに見えている場内信号機の停止信号で停車して、対向の2401レの到着を待たなくてはならなくなった。駅でも無いところで列車がしばらく動かなかったので、窓から何事かと不審に思った乗客の顔がちらほら見えだした頃、D60牽引の対向列車がやっと黒煙を上げ、坂を喘ぎ喘ぎ登ってきた。その時、列車と列車が一本の線路で向き合い、そのまま進んで行くと将に正面衝突かと見紛うような驚きの一瞬が現出された。
坂を登り切った下り列車がポイントを分岐してやっと駅に到着し、磐梯熱海からのタブレットを受け取りに行った助役さんの手でそれが授柱にセットされ、場内信号が緑に変わって 2404レは汽笛を吹鳴し、静かに動き出した。2404レが比較的ゆっくりと通過する中、機関助士が身を乗り出してキャリアを掬い取った。
そんな特別な理由からこのキャリアをキャッチしたベストチャンスが掴めたというわけである。


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Jul '64 青森駅
生まれて初めて青森駅に降り立った。初めて見る光景に嬉しくなって、改札口に向かう跨線橋の中からとっさにシャッターを押した。よく見ると写っている入換え専用機の9631は、何と後の梅小路蒸気機関車記念館に保存された9633より若番機である。機関車の後ろには貨車を船内に送り込む際に必要な奥行き調整のための控え車が連結され、その後ろには北海道に航送される貨車が連絡船の到着を待っている。右手奥に連絡船が写っており、タグボートが寄り添っているのがみえるので、この連絡船が着桟するのであろうか。この写真は二度と見られない光景を写した記念の一枚となった。



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Jul '64 青森機関区
青森駅から徒歩で暑い中を機関区まで歩いた。何しろ機関区は青森駅から2qほど離れた青森操車場にあるのだから堪らない。このように駅と離れたところに機関区があるということは、青森駅の規模が大きいという証拠だったと思う。途中の踏切で、いきなりダダダッと青森駅に向け高速で通過していくC60とC61の重連に出会った。寝台急行「北斗」だった。東北らしい煙突脇の小型除煙板が陽光に輝き綺麗だったことを良く覚えている。何しろ虚を突かれたので残念ながらその時の写真は無い。実はこの時生まれて初めてC60とC61を見たのだが、あっと言う間に通過していったので、先頭のC60しか覚えていない。汗を拭き吹き歩いてやっと着いた青森機関区は石炭の煙に霞んでいた。この時間近にC61を見て良い形をしているなと、一度で好きになった。周囲には旅客の大動脈を担う機関区の雰囲気が充満していた。

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Jul '64 東北本線 御堂・奥中山間
D51三重連貨物列車のメッカと言えばここ奥中山。鉄道ファンは誰もが憧れた場所だった。とは言ってもこの当時はまだまだ平和なもので、この日この場に来たのは我々の仲間だけだった。上りの「はつかり」をやり過ごして、歩き出したら、早速やってきたのがこの列車。残念ながら後補機だったが、貨物が長く大奮闘。それにしても列車本数の多いのには、さすがに大動脈だと驚いた。



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Jul '64 東北本線 御堂・奥中山間
木曽では珍しかった俗称ナメクジと呼ばれる一次型のD51。この写真で目立つ炭水車の炭庫の大きなタンクが何であるか、この時点では知らなかった。木曽の機関車には無かった装備だからである。これが重油併燃のための重油タンクだと後に友人に教えて貰ったが、しばらくは理解できなかった覚えがある。この区間は上り下りが分離しているので、いまD51が登っていく下り線の線路の道床は滑り止めの散砂で真っ白、逆に右の上り線はブレーキ粉で真っ赤に染まっていた。D51の右手に引き上げ線が見えるが、こちらが水平であり、機関車の登っていく本線がきつい勾配であることが分かる。炭水車にうっすらと水滴の線が見えているが、見事に斜めになっているのがお分かりいただけよう。これが延々と続いた勾配との闘いの名残である。


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Jul '64 東北本線 御堂・奥中山間
奥中山と言えば三重連と相場は決まっているが、全ての貨物列車が三重連で来る訳ではない。とにかくどんどん列車は来るが、なかなか三重連では来てくれない。この場所は見通しがきくので、何本か待った後で遠くにお目当ての三重連が見えた時は、思わず歓声を上げてしまった。夏の日差しは強く、気温も半端ではなかったので残念ながら豪快な煙は写せなかったが、初めて見る三重連の迫力は圧倒的であった。長大な貨物を牽き三両のD51がそれぞれブラストを吹き上げロッドを鳴らしながら一歩一歩踏み締めるように通過していく姿を、ただただ呆然と見つめながら、シャッター釦を押した。


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Jul '64 東北本線 御堂・奥中山間
当時の東北本線には奥中山を頂点とする峠越えに備えて、盛岡、一戸、尻内と三つの機関区があり、なんと合計64両もの大量のD51が配置されていた。(昭和41年の資料から) それ故贅沢にも後補機が二両も付いていた貨物列車があった。そういう列車が次から次へと来るので目の回る忙しさだった。今見るといろいろな貨車がつながっているのがこよなく楽しい。



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Jul '64 東北本線 奥中山
奥中山駅を通過する特急2D「はつかり」。キハ80系は151系を意識した独特のスタイルで目立った存在であったが、運行開始当初はトラブル続きで、「がっかり」と揶揄されたことをよく覚えている。その後は国鉄技術陣の頑張りもあり、東北線のクイーンとして立派にその地位を確立した。キハ80系は非自動区間の運転を考慮して、最初タブレットキャッチャーが取り付けられていたが、この時期はもう取り外されていたようである。右手に見えるD51とC61の重連が「第二十和田」で、このような山間の小駅に停まって客扱いをするのも妙な気がするが、実はこの先が単線のため、2Dの通過を待つための停車であった。同行したH氏の写真を見たら、なにやら弁当を売っているような人が写っていたが、時刻表には載っていないし、いったい何を売っていたのだろうか。


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Aug '67 東北本線 御堂・奥中山間
43.10の電化完成を1年後に控えた盛岡駅に209レ急行「第4十和田」が滑り込んできたとき、牽引機は既にDD51であった。しかしその8分間の停車時間の間に最後尾では後補機の連結が行われた。ボッ、ボッと連結合図の汽笛を聞き、ガクンと連結の衝撃を感じた時、今日もD51の活躍が再び見られると知り、急に嬉しくなった。この写真は取り立てて見るべきものも無い平凡なものだが、現車12両、十三本木峠の急勾配を猛然と押し上げるD51後補機の活躍を、揺れる車内から撮った自分にとっては思い出の写真である。最後尾から郵便車、2等寝台、1等座指、1等自由、そして食堂車と実に豪華な編成であった。御堂を過ぎ、D51はグイグイと非力なDD51を補って押し上げている。連続投炭が続く。黒煙が空に高く舞い上がり、その後方は煙で霞んでいる。その時の興奮が夏の熱気と共に今でも忘れられない。



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Mar'70 羽越本線 羽後本荘・西目間
春とはいえ海からの風が冷たくうら寂しい夕暮れだった。



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Mar.1970 羽越本線 温海・小岩川間
うっかり皮の手袋を列車の座席に置き忘れてきてしまった。
降りてから気づいたがもう遅い。
日本海から吹き付ける寒風は厳しく、じっと待つ間にも手先が痺れてきた。
我慢して待っているうちに、やっとC57牽引の列車がやってきた。
そんな思い出の写真である。



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Mar.1970 羽越本線 温海
温海駅にかまぼこドームのD51に牽かれた貨物がゆっくりと到着した。
周囲の雰囲気に、急速に変わりつつある羽越本線の状況が窺える。


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Mar.1970 羽越本線 温海
温海駅を発車するC57。降りしきる粉雪が冷たい。





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Mar.1970 羽越本線 温海
温海駅を発車したC57。折からの逆風で大変なことになってしまった。
排煙で何も見えないなどというのは初めての経験だった。



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Mar.1970 奥羽本線 陣場・津軽湯の沢
ああ感激!県境を行く前1後2D51の咆哮。



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Mar.1970 奥羽本線 陣場・津軽湯の沢
降りしきる雪の中、県境を行く前1後2D51のブラストが響き渡る。


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Mar.1970 奥羽本線 津軽湯の沢・碇ヶ関
雪は降り続く。視界も怪しくなってきた。
そこへ、DF50を先頭に貨物列車がうなりをあげて登ってきた。



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Mar.1970 奥羽本線 津軽湯の沢・碇ヶ関
船底テンダーのD51は自分には馴染みがなかったが、矢立峠では大奮闘していた。
安全弁から上がる蒸気がその力闘を物語る。

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Mar.1970 奥羽本線 津軽湯の沢・陣場
この区間ではDF50が旅客列車の先頭に立つこともあった。
行く手は吹雪で何も見えない。

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Mar.1970 奥羽本線 津軽湯の沢・陣場
雪国の鉄道の印象は残された暖かそうな蒸機の排煙に尽きる。

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Mar.1970 奥羽本線 津軽湯の沢
碇ヶ関に下っていく貨物列車を駅員が直立不動で見送る。
陣場に転車台がないため、逆向である。


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Mar.1970 奥羽本線 陣場・津軽湯の沢
降りしきる雪の中に各駅停車の列車が絶気で下ってきた。



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Mar.1970 奥羽本線 碇ヶ関・津軽湯の沢
降りしきる雪とまとわりつく蒸気がすさまじい後補機の奮闘。


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Mar.1970 奥羽本線 碇ヶ関・津軽湯の沢
降りしきる吹雪の中、急行の通過を見守る保線区員。
このような鉄道員の皆さんのおかげで列車の運行が守られていたことを忘れてはならない。

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Mar.1970 奥羽本線 津軽湯の沢・陣場
舞い上げる雪と排煙で後方が見えなくなる程の補機の奮闘。
こんなシーンが好きである。


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Mar.1970 奥羽本線 碇ヶ関
本務機の煙が印象的な発車のシーン。



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Mar.1970 奥羽本線 碇ヶ関
上り貨物が必死で奮闘しているが、なかなか近づいてこない。重連の後補機がこの位置だとよく見えることに今気付いた。



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Mar.1970 奥羽本線 津軽湯の沢
朝方の雪が霙に変わった。発車した上りの客車列車をD51補機が猛然と押し上げていく。


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Mar.1970 奥羽本線 碇ヶ関
弘前発花輪線経由の急行「みちのく」が雪まみれで到着した。この先の行路が思いやられる。


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Mar.1970 奥羽本線 碇ヶ関
碇ヶ関はこのシーンが最後になった。前1後2で豪快に発進していく姿を見送った。



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