榊原 茂典
ひとりごと
    「私の中央西線」  
2017.02.01  久しぶりに再開させていただきます。  
2014.03.13 長崎本線への憧れ
先にも書いたが、昭和40年11月に高校の修学旅行で初めて九州の地を踏んだ。この時の思い出はいろいろあるが、中でも最後の宿泊地島原から島鉄バスで峠を越えて朝の市内に入った時の感激は忘れられない。快晴の朝の光の中、周囲を山に囲まれ、深く入り込んだ長崎湾、そして山肌に展開する美しい街並みを初めて見て、一遍に長崎の街に魅入られてしまった。そんな昂ぶった気持ちのまま一通り市内観光をすませ、15時45分発の3038レ「九州観光号」に乗るために長崎駅に着いた。日は傾き長崎駅には金色の光線が満ち溢れていた。青いオハネ17を中心とした「九州観光号」は既にホームに据え付けられており、隣のホームにはその5分前に発車するDD51牽引の2列車特急「さくら」の編成が静かに発車を待っていた。長いホームを先頭まで歩いてみて予期せぬ発見に小躍りした。DD51牽引かC57牽引だろうと期待をしていなかったのに、なんと牽引機がC6029だったのだ。しかし本当の感激はこの後にあった。定刻、長い汽笛を市内に響かせてC60は発車した。浦上、道ノ尾、長与、本川内と通過して峠を駆け登り、峠を下ってやがて海の見える大草に停車した。ここで急行「出島」と列車交換。再びC60は左手に海を見ながら発車した。列車は群青色の大村湾の平坦な海岸線を快走してしばらくすると大きな左カーブに入った。薄く煙を引き先頭を行くC60の大きなテンダーが夕日にギラリと輝いた。周りはミカンの段々畑。C60と海と緑と夕日のコントラストが演出した見事な舞台だった。綺麗だ、と暫し見とれた。至福の一瞬だった。この瞬間から長崎本線が一生忘れられない憧れの線になった。いつかここへ来てもう一度この光景を見たい。この時の印象は深く脳裏に刻まれた。
その後大学生になって、写真を撮るようになり、もう一度あの光景を撮ってみたいと思って何度も通ったが、結局撮れずじまいのまま無煙化が完了してしまっただけでなく、本線も別ルートを通るようになってしまい、この区間は優等列車さえ通らなくなってしまった。
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2012.01.10 鹿児島本線の思い出
私の好きなC60とC61は昭和40年代になると東北と九州でしか見ることが出来なくなった。何故か私は南国の明るい光の中を走るC60とC61に惹かれた。それは高校の修学旅行で初めて見た九州の風土の鮮烈な印象があったからだと思う。中でも風光明媚な長崎本線を行くC60と、桜島に象徴される男っぽい雰囲気の鹿児島本線を行くC60、C61が特に気に入った。結局迫り来る無煙化に急かされ、その雄々しい風景の中を走る大型蒸気機関車を今のうちに何とか撮っておきたいと、金も無い学生のくせに毎年鹿児島本線に足を運ぶこととなってしまった。取り分け灌木に被われ独特の形で山肌が露出した断崖深く分け入って外輪山を20‰でよじ登る区間、西鹿児島・上伊集院間には魅せられた。この区間のC60とC61の奮闘はその迫力を充分に堪能させてくれた。ところがである。煙が綺麗な季節を狙おうと春休みを使って行ったまでは良かったが、鹿児島地方の春先は雨が多い。特に昭和44年はさんざんと言って良いほど雨にたたられた。旅費を浮かすために夜行列車を使って南北を移動し、撮影の日をずらすのだが戻ってくるとまた雨。これにはさすがに往生した。そんな強行軍の続いた昭和43年のある春の日、同行のO氏と、「夜行移動が続いて疲れたから一度特急『有明』に乗ってみたいね。」と特急券を奮発し、昼間博多から西鹿児島までキハ82に揺られることとした。ところがこの日は皮肉なことに見事な晴れ。有明海が美しかった。昼食時になり普段はパンとかうどんで節約しているから、たまには食堂車で食べても罰は当たらないだろうと、食堂車に向かったところ、たまたま中年のご婦人が一人で座っていたテーブルに相席となった。この時に一見水商売風のこのご婦人が突然口を開いて「お兄さんたちビール飲める?私飲みたいのだけど、一人じゃみっともなくて恥ずかしいでしょ。奢るから付き合ってよ。」と話しかけてきた。勿論断る理由も無く、謹んでお受けしたが、この細やかな周囲への気の遣い様は、自分より年上の世間を知っている大人の女性ならではのものと勉強になった。歩きタバコをしない、人前で化粧しないなど最近の若い女性がすっかり忘れてしまった日本の女性のたしなみがまだまだ残されている時代だったとしみじみ思う。懐かしい思い出である。
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2011.08.11 木曽路のD50
木曽谷の生活にも慣れ、D51の形態の違いが分かってきた頃、ある夏の日、偶然早起きした時、早朝に木曽福島を発車する下り貨物の牽引機がどうもいつものD51ではないことに気付いたのです。こうなるとじっとしておられない性分で、翌日早速早起きして駅を見下ろせるところまで見に行きました。貨物ですから毎日運転しているとは限らないので、ちょっとした賭でした。山の端までついた時、嬉しいことにその機関車が貨物列車を従えゆったりと薄い煙を上げているのが見えました。それも上りの副本線に止まっていたのです。私は朝露に濡れた山を駆け下りました。そしてその機関車を間近に眺めることが出来ました。なんとその機関車は木曽谷では見かけないD50だったのです。区名板を確認しました。そこには「松」という区名板が差されていました。松本機関区のD50に会ったのは初めてでした。給水暖め器が煙室扉の前にどっかりと座り、サンドドームと蒸気ドームが駱駝のこぶのように分離しており、汽笛がボイラーの上に直立していました。動輪は華奢なスポーク。私はすっかりこの優美なD50に魅せられてしまいました。でもこの機関車には大きい四角な箱が煙突を覆って取り付けられていたのです。当時の木曽谷ではこんな箱を見ることはありませんでした。子供ですから興味があります。乗務している機関助士のお兄さんに下から声を掛けて聞いたのです。そうしたら、お兄さんはレバーを操作してくれました。びっくりしたことに煙がモクモク箱の後端から出てきました。そして「トンネルに入る時使うのだよ」と親切に教えてくれました。やがてこのD50は発車の時刻が来て上りの副本線から手信号で、薄暗い構内を下り方向に向けて出発していきました。木曽谷でD50を見たのはこれが最後でした。この箱が集煙装置という仕掛けだと言うことを知ったのは、ずっと後になってからです。そして木曽谷のD51にも集煙装置が取り付けられたのは、この時から10年後、私が写真を撮るようになってからでした。
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2011.01.06 九州の鉄道について
蒸気機関車と云えば雪景色と云う印象が強く、大勢の鉄道ファンが北へと向かったが、私は何故か西の蒸気機関車が好きで何度か九州に足を運んだ。九州にはC62こそ走っていないが、ほとんど全ての機種が揃っており、そのバラエティが楽しかったことと、全ての機関車が磨きたてられていて美しかったこと。加えて美しい日本の姿を残していた沿線の風景が気に入っていた。久大本線についていえば、この線は地味な印象があり、沢山の鉄道ファンを集めはしなかったが、私にとってはこの線区こそが良き時代の日本の姿を残している素晴らしい線区の一つであった。特に冬場の柔らかい陽の光に浮かび上がる優雅な古豪D60の奮闘はこの線区の持つ魅力を余すところなく私に印象付けてくれた。山あり谷あり盆地、平野ありと景色の変化も楽しい線区であった。ある時、D60に牽かれる客車オハフ61が満員でやむを得ず車端の簡易座席に座っていたら、車内販売で乗ってきた地元のお姉さんと居合わせて、仲良くおしゃべりをしたのも良い思い出である。驚くなかれ当時は鈍行でも車販があった。結局蜜柑の缶ジュースを買わされたが。その缶には飲むために缶に穴をあける小さな穴開けが付属してていて、それで穴をあけて甘いジュースを飲んだことを鮮明に覚えている。
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2010.12.06 ASAHI PENTAX SPの話
昭和42年購入当時このカメラは露出計内蔵が売りで、55ミリF1.8付きで定価が42,000円だった。物価の比較で云うとトヨタカローラが50万円位です。現在はカローラが150万円位ですからこのカメラは今なら13万円位に相当するわけです。結構高かった。その頃、ニコンFは50ミリF2つきで当時58,700円今なら18万円位それも露出計なしです。もし露出計付きのフォトミックとなれば72,200円。なんと換算で22万円。購買力の比較で云えば当時の大卒初任給が3万円ぐらいでしょうか。フォトミックはなんと2か月分の給料以上です。だからPENTAXの価格設定は親のすねを齧っている身にとってにとって、救いの神だった。家庭教師のアルバイトで貯めて、欲しかった22,500円の200ミリF4を自分の力でやっと買えた時は嬉しかった。それを最初に使ったのが木曽北部に載せた写真です。ただこのカメラ、マウントがレンズをくるくる回して交換するスクリューマウントだったのでレンズ交換には往生しました。外すのは良いが嵌めようとすると中々嵌らないのです。列車が迫っているときに交換しようと焦れば焦るほど嵌らず、汗びっしょりになったことも再三。今は良い思い出です。学生時代私と共に旅をしたこのカメラは今、仏壇で買ってくれた父親の位牌とともに静かに眠っています。

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2010.11.08 私が小学生のころ、当時の生活水準から考えても、今と違って子供がカメラを手にすることはとても許されることではありませんでした。仕方なく毎日眺めていた蒸気機関車の姿を何とか記録に残そうと、暇を見てはスケッチブックに鉛筆で大好きな機関車を描いていたのですが、カメラさえあれば蒸気機関車のありのままの姿を写し取れるのにと、残念で仕方ありませんでした。
年月が経ち、私が木曽を離れてから、再び懐かしいD51に会えたのは、大学生となってからでした。父親にねだって何とかASAHI PENTAX SPを買ってもらったのです。このカメラを携えて木曽を訪れたのは昭和43年の夏でした。昔の腕木式信号機とタブレットは無くなっていましたが、D51は昔と変わらぬ姿で、私を迎えてくれました。でもその頃、日本中の幹線には電化の嵐が迫っていました。それからは何れは消えてゆくD51の素顔を記録しておこうと、何度も中央西線を訪れることになったのです。しかし学生の身分では自由に旅行ができるわけではありません。小遣いを工面して買ったフィルム一本が大切でした。そんな思い出の一杯詰まった写真が40数年ぶりに皆様に見て頂けることになり、嬉しく思っています。

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2010.10.21 HP「私の中央西線」を開設しました。よろしくお願いいたします。  
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