榊原 茂典     日豊本線・吉都線
   
最後の楽園を行くパシフィックたちの姿をご覧ください
         
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    Feb'69 日豊本線 田野・青井岳間
雨模様の天気の中、C57が短い貨物列車を牽引して猛然とラッシュをかける。ここで加速しておかないとこの先には急勾配が待っている。この当時、蒸気機関車を効率よく撮影できる区間は宮崎より南と狭まっていた。


 
   
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Jul'67 日豊本線 宮崎機関区
私の日豊本線訪問はこの何の変哲も無い一枚の写真から始まった。当日鹿児島は大雨で写真を撮りたくても出かけられる状態ではなく、やむなく断念。西鹿児島発1100の34レ「高千穂」で霧島を越えて1352宮崎へやってきた。そしてすぐ訪問したのが宮崎機関区。早速C55が出迎えてくれた。

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Jul'67 日豊本線 宮崎機関区
宮崎機関区のターンテーブル。折しも石炭満載のC55が向きを変えていた。左に見える小屋には動労の看板が。そういう時代でした。


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Jul'67 日豊本線 宮崎機関区
宮崎機関区に憩う運転整備の終わったC5529。
実は書き落としたことだが、このC55型は20番から40番まで元々流線型のカバーで全体が覆われていたという。昭和初期のモダニズムに影響され高速をイメージさせるスタイルを目指したようだ。しかしながら日本の線路事情では流線型にしたとて、そんなに空気抵抗を減らせる訳でもなく。整備上の不便からカバーは全て取り外されてしまったようである。宮崎にはそんな過去を持つ機関車が揃っていたが,過去の名残がある機関車は少なかった。この29号機は運転台の下を見てもらうと分かるように、カバーの名残がある。運転室の屋根も心持ち丸く感じられると思うが、これも流線型カバーの一部であった。


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Jul'67 日豊本線 宮崎・南宮崎間
機関区を辞して、駅前から大淀川の川岸に向かう。二年前の修学旅行の際、良い鉄橋があると目を付けていた。しばらく待つうち、京都発都城行き1203レ急行「日向」が鉄橋上に飛び出してきた。向こうが透けて見えるので、客車の床下に何があるかがよく分かる。この客車は荷物車と二等車の合造なのでトイレが真ん中にあり、水タンク、ブレーキ三方弁、バッテリー、発電機などが視認できる。


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Jul'67 日豊本線 宮崎・南宮崎間
急行「日向」の連続写真。一両目が荷と指定のハザ、二両目がハネ、三両目が指定のロザ、,四両目が自由のロザ、残り3両が自由席のハザである。7両のうち2両が一等車とは豪華なものである。
後に撮影名所として有名になる大淀川河畔のこの場所の写真も、当時はあまり発表されていなかったと思う。


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Jul'67 日豊本線 宮崎・南宮崎間
天気はどんよりと曇ってきた。運がないと嘆いていたら、1655過ぎに7レ特急「富士」が鉄橋を響かせて通過していった。下関で分割しているので短い編成となっている。後ろから2両目が食堂車である。この列車の西鹿児島着は1935。


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Jul'67 日豊本線 宮崎・南宮崎間
この鉄橋で撮影していて、ここならスポーク動輪の機関車が来れば向こうが透けて面白いのではないかと気付いた。宮崎区にはC55が沢山いるので期待できると待ち構えた。その時お誂え向きに2541レが現れた。動輪が見事に透けて、狙い通りだったと独りほくそ笑んだ。岸辺ではビル建設の槌音が響く。



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     Jul'67 日豊本線 宮崎・南宮崎間
続けて先ほど機関区で待機していたC5529がやってきた。この回送列車は逆向きに機関車が連結されている。その理由はこの列車は隣の南宮崎まで行き、上り2540レとなって戻ってくるが、転向する設備がないため、逆向きに連結されているのである。


   
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    Jul'67 日豊本線 宮崎・南宮崎間
C55の回送列車が行った後、丁度C57の牽引した貨物列車がやってきた。C55と瓜二つと言うほど外観が似ているが、動輪がスポークか、プレートであるかが、目立つ違いである。このC57はプレート動輪なので向こうが透けて見えない。鹿児島から山を越えて来たのか炭水車にはもはや石炭の山は見えないようだ。この日豊線の南端では貨物列車にもC55、C57のような旅客用機関車を使用していた。 
   
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     Jul'67 日豊本線 宮崎・南宮崎間
今度はC11の牽引する下り貨物列車がやってきた。タンク機関車の形態がよく分かる。この機関車もスポーク動輪である。天気は嬉しいことに好転しつつある。


   
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    Jul'67 日豊本線 宮崎・南宮崎間
17時50分過ぎ、先ほど逆向きで南宮崎まで回送されていった2540レがC55を先頭にやってきた。南国で日が長いと言ってもASA100のフィルムで走行写真を止めるのは厳しい。当時は珍しかった流し撮りに初めて挑戦してみた。C55のスポーク動輪が上手く透けて思ったより面白い写真になった。

 
   
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    Jul'67 日豊本線 門石信号場
翌朝は見事に晴れ上がった。823Dで青井岳方面に向かう。途中ロケハンをしていたら、良い具合に信号場があった。ちょうど急行「青島」と交換することがが分かったので、咄嗟に車掌さんにお願いして降ろしてもらった。ホームが無いので降りるのが怖かった覚えがある。しばらくして,トレーンマークをかざした402Dが通過していった。


 
   
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    Jul'67 日豊本線 田野・門石信号場間
良い天気だと安心していたら、急に雲行きがおかしくなってきた。降られなければ良いがと思っていいるうちに、C57牽引の貨物列車が急勾配を登ってきた。荷は軽そうである。

 
   
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    Jul'67 日豊本線 門石信号場
やっぱり雨になってしまった。ついていない。信号場の本屋に逃げ込ませてもらう。上り貨物が通過すると教えられ、外へ出た。かなりの降りで遠くへは行けない。迷っているうちにC57が勾配を下ってきた。慌ててカメラを構えてはみたものの、残念なことに徐行予告信号機が真ん中に写ってしまった。機関助士がタブレットキャリアを持って投入の準備をしている。


 
   
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    Jul'67 日豊本線 門石信号場
今まで降っていた雨が突然上がった。南国の気温は高くすぐ道床が乾き始める。そこへDF50に牽引された8レ特急「富士」が駆け下りてきた。DFの幅に比べ20系の幅が広いのがよく分かる。


 
   
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    Jul'67 日豊本線 門石信号場
天気は一変、また土砂降りである。そこへC57牽引の貨物列車が接近してきた。駅長さんが雨の中を走り、通票受器の下で通票が投げ入れられるのを待つ。今はもう二度と見られない懐かしい光景である。

 
   
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     Jul'67 日豊本線 田野
天気は土砂降り。門石では足場が悪くて歩き回れないと諦めていたら、駅長さんが「どこへ行くのかと聞いてくれた。」「田野へ戻りたいのだが停まる列車が無いから困った。」と答えたら、「貨物に乗って行けと勧めてくれ、確か臨時停車の手配をしてくれて、車掌車に乗せてくれることとなった。ワフに乗ったのは生まれて初めてであった。その乗り心地の悪さは大変なもので、振動揺れ共に半端ではない。おまけに2軸なので鞭のように左右に振り回されるのである。あっという間に田野に着いてしまったが、貨物の車掌さんは大変だと初めて実感した。
お礼を言って列車を降りたら、今度は良い天気になってきて、強烈な日差しが戻ってきた。

   
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    Jul'67 日豊本線 田野
日差しは強く、ジリジリと肌を焼く。田野駅は今思うと典型的な単線の駅だった。とはいえ本線の駅らしく、転轍機はテコによる双動機であり、よく見るとその操作のために駅員さんが待機しているのが左端に見える。中央部には第二種連動装置のボックスも写っている。腕木式の信号機も沢山写っており、構内の情景を詳細に記録しておけば良かったと、今更ながら残念に思う。
そこへ、C55牽引の貨物列車が進入してきた。

 
   
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    Jul'67 日豊本線 田野
貨物列車が到着後、強い日差しの昼下がり、1204列車急行「日向」がうなりを立てて通過していく。


 
   
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    ul'67 日豊本線 田野
一瞬、日差しが陰った。そのとき長い間待機していたC55牽引の貨物列車が発車した。


 
   
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    Jul'67 日豊本線 田野
太陽が再び夏雲の間から姿を現した。強烈な夏の日差しが降り注いでくる。目を開けているだけで辛い。汗を拭き拭きカメラを構えていたら、向かいの山の山裾をC55牽引の上り普通列車が軽やかに横切っていった。

 
   
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    ul'67 日豊本線 日向沓掛・田野間
この夏の日豊本線はこの走り写真が最後となった。やってきたのは真夏の強い光を浴びて草生す鉄路をひた走る34列車「高千穂」だ。何とこの列車、終着東京には翌日の夕方到着となる。

 
   
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    Jul'67 日豊本線 霧島神宮
田野から普通に乗り、都城から下り急行「にちりん」に乗り換えた。西鹿児島に向かう途中、霧島神宮では嬉しいことにC55の2に出会った。暑い夏のさなか汗を拭く乗務員の姿が印象的だった。前を行く二人の若者が当時の旅行スタイルを思い出させる。

 
   
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    Mar'68 日豊本線 霧島神宮・国分間
翌年、再び日豊本線を訪れた。去年の夏、最後の日豊本線に乗った時に見かけた印象は日本離れしていて強烈であった。錦江湾近くの国分付近から、日本では珍しい切り立った崖の上に樹木を戴いた山々が見られるのである。
もしかすると霧島トンネルの西口からそれらの山々と桜島が一緒に見えるかも知れない。当時は何の情報も無かった。
国分駅から襲山トンネルまでどのくらいあるか分からないが、とにかく歩いてみようと意を決して駅に降り立った。
ところがまたまた運の悪いことに曇り空。気は重かったが襲山トンネルを目指して歩き始めた。
平地から急勾配にかかったあたり、残念ながらここからは錦江湾の方は望めない。とにかく先を急ごうと歩いていたら、隼人9:57発の8列車「富士」がエンジンの音も高く急勾配をよじ登ってきた。
右側にそびえる山の形が良く地形の特徴を現している。

 
   
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    Mar'68 日豊本線 霧島神宮・国分間
怖い思いをしながらトンネルを二つ抜けて高度を稼ぎ、景色の良いところへやっと到達した。ここが将に去年車窓から見た光景だった。日は差してきたが、肝心の桜島が曇っていてまだ見えないのが残念である。


 
   
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    Mar'68 日豊本線 霧島神宮・国分間
先ほどの地点から少し登ったところが襲山隧道の南のポータルである。トンネルは1,929mもあり、もうこの先には徒歩ではとても行けない。ここで腰を据えて待つこととした。狙いは蒸気機関車牽引の上り貨物列車だったがこの日は結局来なかった。昼前に2542レがエンジン音も高く歩むようなスピードで登ってきた。この時錦江湾には日が差しており、煙を上げる桜島がかろうじて見える。何しろこの区間貨物の本数が少ないと来ている。早々に諦めてYHに向かうこととした。25‰を登るC55やC57が撮れなかったことは心残りではあったが、その後この区間に二度と来ることは無かった。
しかし、ここは日本離れした雄大な景色だと思う。今はどうなっているのであろうか。

 
   
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    Mar'68 日豊本線 都城
翌朝急行「青島」で都城に向かった。心配していた天気は見事な快晴となった。
駅を降り、三股方へ歩く。構内は広い。折しも8620が白煙を上げ入れ換えに余念が無かった。
右端に高く場内信号機とその左に機械式の入れ換え信号機が写っている。
今となっては貴重な一シーンである。
 
   
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     Mar'68 日豊本線 都城・三股間
実は402D急行「青島」が途中で追い越した2540レが蒸機牽引なのが分かっていた。そこで良いポジションを見つけようと歩き出したのだが、「青島」の発車が9:36、2540の発車が9:58と、たった22分しか無い。構内は広い。焦った。小走りに歩いてやっと辿り着いたのがこの遠方信号機の先のポジションだった。結局、ここで撮れたのが「国鉄時代」の遠方信号機の原稿に生きた。C57122は九州の機関車らしい原型の美しさを保っている。

   
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    Mar'68 日豊本線 都城・三股間
日豊本線といえばどこかで霧島山が見えるはずだと思い、狙ったのがここ都城三股間だった。去年の夏車窓から見ているはずだが、手前に建物などの障害物が無く見通せる場所が都合良くあるか、自信は全く無かった。ただひたすら歩いているうちに汽笛が聞こえ列車の来るのが分かった。近づいてきたら何と嬉しいことにC55、C57の重連だった。快晴で霧島がよく見え何とか両方撮れて満足した。


 
   
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    Mar'68 日豊本線 都城・三股間
都城11時01分発の8レ特急「富士」が接近してくる。長閑な風景が懐かしい。

 
   
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    Mar'68 日豊本線 都城・三股間
宮崎区のC57が美しいサイドを光らせながら通過していった。去年に比べるとC55の運用が激減したように感じた。


 
   
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    Mar'68 日豊本線 三股
歩き続けてついに三股まで来てしまった。C55牽引の541レが丁度発車した。この駅は典型的な本線で単線の駅である。


 
   
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    Mar'68 日豊本線 都城・三股間
541レの後は、もう一本2542レが来る。もう一度都城よりに戻って待つ。やってきた列車は何と重連。本務は変な話ではあるがC56。四次形のC57は給水温め器がカバーされ、C59と雰囲気がよく似ていて優美である。


 
   
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    Mar'68 日豊本線 都城
都城構内のスナップ。こういう何の変哲も無い写真にも忘れられた懐かしい光景が残っている。台車の上の荷札の着いた小荷物をご覧頂きたい。いろいろな風袋があることに驚く。遠くに見える船底テンダーのC58は志布志線の機関車であろう。よく見るとC58のラストナンバー427である。


 
   
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    Mar'68 日豊本線 宮崎
当時の日記を見ると、この日はそのまま宮崎入りしたとある。宮崎機関区では、C57が集結していた。C57109はポーカーを突っ込んで火床整理をしているようだ。左のC57107はコンベヤで石炭を積み込んでいる。この頃になると人力による作業は減って機械を使うようになったのがよく分かる。こんなところからも蒸気機関車の終焉は間近いと感じさせられた。


 
   
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    Mar'68 日豊本線 日向沓掛・田野間
半年ぶりに田野を訪問した。この駅の周辺は撮りやすい風景が広がっており後にファンのメッカとなる。C57が貨物を牽くのもこの線の特徴。
 
   
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    Mar'68 日豊本線 田野・門石信号場間
やっと日が差してきた。今度は青井岳方向に歩いて列車を待つ。しばらくしてC57の牽く貨物列車が坂を駆け下りてきた。


 
   
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    Mar'68 日豊本線 田野・門石信号場間
C57牽引の下り列車が田野駅を発車した。よく見るとすべて一等車の編成だった。

 
   
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    Mar'68 日豊本線 日向沓掛・田野間
再びてくてく歩いてポジションをかえる。今まで来たことの無い沓掛寄りの切り通しに来たとき、カメラを構えるまもなくいきなり客車列車がやってきた。予想していない列車だった。


 
   
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    Mar'68 日豊本線 日向沓掛・田野間
田野の大カーブを軽快にC57牽引の2540レが駆け下りてくる。何しろ見晴らしが良いので気分が良い。宮崎は三角形の杉の木があちらこちらに生えていて、風景を特徴付けている。右端に写っているのは今は亡き会社の広告看板である。


 
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     Mar'68 日豊本線 日向沓掛・田野間
2540レがブラスト高く接近してくる。将に南国宮崎の雰囲気横溢といったところか。


   
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    Mar'68 日豊本線 日向沓掛・田野間
2540レが通過していった後を追うように回送列車がやってきた。先ほど下って行った全て一等車という豪華編成の戻りだったのかも知れない。曇天だったので光が良く廻り、変わった雰囲気に撮れた。

 
   
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    Mar'68 日豊本線 日向沓掛・田野間
11時30分過ぎ、8列車がいきなり姿を現した。編成は短いと言っても、DF50には結構辛そうに感じたものである。


 
   
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    Mar'68 日豊本線 日向沓掛・田野間
今度は長閑な風景の中を,のんびりと貨物列車が登ってきた。丁度頂上を過ぎ、降りかかったポジションにいたので、今でも給水ポンプの働いている「ガツン」「ガツン」という音が良く聞こえていたのを覚えている。


 
   
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    Mar'68 日豊本線 日向沓掛・田野間
やってくる機関車はC57ばかり。今度は4次型の191がやってきた。荷は軽く如何にも平和な風景である。


 
   
         
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    Mar'68 日豊本線 日向沓掛・田野間
右カーブの坂を登るC57。鹿児島から来たのか炭庫の石炭はかなり減っているようだ。



 
   
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     Feb'69 山野線 薩摩大口
ネガを見ていたら、珍しいカットが見つかったので紹介したい。
この日水俣から一度山野線のループトンネルを通ってみようと気動車に乗り込んだ。ループトンネルは肥薩線の大畑が有名であるが、当時はこちらにもループトンネルがあった。殆ど紹介されていなかったのでいったいどんなところかと興味があった.。
久木野を出ると33‰が連続し山がどんどん深くなる。さすがのキハ52も喘ぎあえぎの難行苦行。登る途中にループのトンネルがあり、トンネルを出ると今登ってきた線路が眼下に見える。将に深山幽谷の風情。今思えば大変貴重な経験だった。サミットの薩摩布計まで来ると今度は一方的な下り坂。深い渓谷を一気に駆け下りる。そして着いたのがこの薩摩大口。列車交換で乗客が足早に対向の列車に乗り込もうとしている。
奥に見える0番線の気動車は宮之城線のキハ52だと思われる。


   
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    Feb'69 山野線 菱刈
薩摩大口を出て栗野に向かう途中、乗っていた気動車列車が貨物列車と交換した。先頭にはC56がいた。小生のネガには殆どC56の映像は残っていない。こういう駅の風情が今思えば懐かしい。


   
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    Feb'69 吉都線 京町
この写真も場所の特定が難しかった。交換するC55が写っているので吉都線であることは分かったが、駅名が分からない。国土地理院の74年の空中写真で街の位置を確認して当たりを付け、Googleのストリートビューで山の形を確認してやっと特定できた。沢山の生徒達が小林方面の列車を待っている。このように当時鉄道は地方で存在感があった。


 
   
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    Feb'69 吉都線 西小林・小林間
初めての線区はどこで撮ったら良いか分からなかった。勾配のあるところということでここを選んだ。まずやってきたのはD51の貨物列車だった。残念ながら絶気。この機関車、戦時型で砂箱と蒸気ドームが角張っていて台車が違うところに特徴がある。門鉄デフと言い、運転室のナンバープレートが前へ突き出ているところは、如何にも九州らしい。


 
   
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    Feb'69 吉都線 西小林・小林間
昔の写真から写っている列車を推理するのは結構難しい。時刻表と首っ引きで調べても遠い昔のことで思い出せないことが多い。この列車は1113D急行「えびの2号・からくに」。博多から矢岳を越えてきた「えびの2号」と出水発山野線経由の「からくに」が吉松で併結されて宮崎へ向かう。先頭にキハ52らしき車両が付いているが、もしかしたらこの一両が「からくに」かもしれない???


 
   
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    Feb'69 吉都線 西小林・小林間
やっとお目当てのC55牽引627レがやってきた。残念ながら絶気。でも綺麗な編成だった。
この日、日中の蒸機牽引の客レはこれで終わり。


 
   
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    Feb'69 吉都線 西小林・小林間
天気が悪くなってきた。
ポジションを変えてやっと給気状態の貨物がやってきた。なだらかなようで勾配は結構きつい。


 
   
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    Feb'69 吉都線 小林
列車交換のための長い停車時間があった。
ブレーキを掛けつつゆっくりと列車が入ってくる。
こういう写真をもっと撮っとけば良かった。


 
   
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    Feb'69 日豊本線 田野・門石(信)間
有名なポジションである。どう切り取るか各人の好みが出るが、ごく平凡に捉えてみた。


 
   
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    Feb'69 日豊本線 田野
天気が優れない。仕方なく田野駅に戻ってきた。ホームの上は宮崎方面の客で一杯である。

 
   
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    Feb'69 日豊本線 田野
上り列車が進入してきた。手前のリアカーには郵袋が山積み。
この写真を見ると田野駅はホームを右手に新設していたようだ。

 
   
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    Feb'69 日豊本線 門石信号場
そぼ降る雨の中を特急「富士」が交換で通過する。受器にタブレットキャリアが踊り、駅長は駅舎内で通票閉塞器に手を添え田野へ定時通過の送信を行おうとしているようだ。
 
   
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    Feb'69 日豊本線 楠ヶ丘信号場
信号場で停まってくれれば降りるのは簡単だがホームが無くて大変だった。乗ってきた1543レは雨の中を発車した。


 
   
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    Feb'69 日豊本線 楠ヶ丘信号場・山之口間
そぼふる雨の中を白煙をまといながら貨物列車が接近してくる。今見ると思ったより良い写真になっていた。


 
   
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    Feb'69 日豊本線 楠ヶ丘信号場・山之口間
雨が見事な舞台を作り上げてくれた。


 
   
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    Feb'69 日豊本線 楠ヶ丘信号場・山之口間
雨に祟られ、震えながらとぼとぼと山之口に向かって歩いてきた。平地に辿り着いた時、C57牽引の貨物がやってきたが、
残念ながら気持ちはブルーだった。


 
   
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    Feb'69 日豊本線 楠ヶ丘信号場・山之口間
特急「にちりん」が何という変哲も無い風景をいく。と言ってこのように人家の見えない景色が今でも見られるのであろうか。
この時代の後、急速に人家が増えてしまい、こんな広々した風景の中を行く列車の写真は撮れなくなったように思う。


 
   
         
         
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